富山大空襲から59年

 今から59年前、1945年8月2日午前0時36分から111分間にわたり、富山市内は米軍のB29爆撃機174機の絨毯爆撃を受け、2700人以上の市民が亡くなった。負傷者は7900人に及んだ。米軍が目標とした当時の富山市街地の99・5%を焼失するという徹底した無差別爆撃だった。城址公園の東南隅あたりを目標中心点として、4500個余りの集束焼夷弾(約1130トン。これは上空1500mで1個につき110本の小さな焼夷弾に分裂。つまり、合計約50万本)、7800個余り(約270トン)のナパーム焼夷弾、300個の集束ナパーム焼夷弾(60トン)が落とされた。
 この空襲は、計16回・57都市が被災した米軍の中小都市空襲の第13回目で、長岡、水戸、八王子も同時に空襲されている。サイパン島・イスレー飛行場から飛び立ったB29は、硫黄島、紀伊半島沖、福井・石川沿岸、河北潟上空を経て富山市上空に飛来した。
 なお、長岡を空襲した約130機が8月1日午後10時頃、富山市上空を通過し、空襲警報が発令されたが、一発も投下しなかったため、警報が解除され、安心したところを空襲された。
 参考文献からその時の様子を少し引用してみる。

○神通河原は、もうすきまなく焼夷弾が突き刺さっている。死体のやまである。(戦争体験記)
○松川の川舟は避難する人で大混乱。我れ先にと逃げまどう姿は風も格好もなく、この世とも思われない。(同)
○…数名の隊員と城址公園の石垣に上り、昼食を食べようとしたその時、目の前の堀の中に大空襲爆撃の際、熱い火の海を逃れて堀に入り、亡くなった人々の死体が無数に浮いており、そのうえ焼け焦げと悪臭のひどさに、昼食が喉を通らず…(同)
○大和の建物の中に入りました。エレベーター前のコンクリート柱まできたとき、左側エレベーター扉の前からコンクリート壁際までに黒こげに焼死体の山が2mほど積み上がったようになっておりました。(同)
○翌日、川原に行ってみると、体に焼夷弾の刺さったままの遺体や、黒焦げ、水膨れ、蒸し焼きの遺体、頭や腹がパックリと口の開いた遺体などが並べられていた。(同)
○県庁正面玄関前の城址側の土手から下りて松川に入り、これでひとまず火より逃れる事が出来ると思いました。あたりにはもう大勢の人が川に入っていらっしゃいましたが、川面に落ちる焼夷弾にみな恐怖と緊張のためか声もなく(中略)午前1時過ぎか2時ころだったでしょうか一際焼夷弾の落下がザアーという音と共に雨霰と激しくなり…(中略)父の声に顔を上げると目の前を一瞬兄の顔が横に半分川面に浮かんでゆっくり流れて行くのが目に入りましたが…(同) 

「戦争は絶対におこしてはならない」と口で言うのは簡単だが、実際には世界各地で発生している。一人一人がよくよく考える必要がありそうだ。

参考文献:「語り継ぐ 富山大空襲 会誌 第一集〜第五集」(編集・発行/富山大空襲を語り継ぐ会)、「富山大空襲・戦争体験記」(編集/富山市民感謝と誓いのつどい実行委員会、発行/富山市)


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