『竹久夢二と大黒や』 大黒や四代目 吉田友裕さん

ファミリーヒストリー


 大黒やの初代吉田長右衛門は石川県松任の農家の五男として生まれ、明治の中頃に30歳を過ぎてから富山へやってきたという。いくつか職業を変え、焼き芋屋を総曲輪通りで始め評判を得て大繁盛した。その後そば屋を始めて、これまた市内でも1、2位を争う評判店となる。
 長右衛門は総曲輪から数百メートル離れた西四十物町に居を構えたが、まだ独身であった。当時近くに富山裁判所の官舎があり、そこに金沢出身の裁判官岸六郎が住んでおり、同郷ということもあり親交を深めたと思われる。
 岸六郎は独り身の長右衛門に、金沢の岸家に女中奉公していたちゑを紹介。そして二人は結婚に至る。ちゑが何歳から岸家で奉公していたかはわからないが、23歳の時に岸家に三人目の子である次女が誕生する。その次女が岸たまき・・のちの竹久夢二の唯一婚姻関係にあった女性である。
 たまきに関しては夢二と共にかなりの資料が残っている。その中の一つに夢二亡き後にたまきが書き残した「夢二の想出」という文章の中に、大正4年に夢二の画を販売するために、当時夢二と離婚していたたまきが富山で画展を開く手伝いをするくだりがある。その一節は次のとおり。
 「画会は土地の名家水上峰太郎、先代大黒屋吉田長右衛門氏など十人程で盛会で済ませ・・・云々」とある。
 水上峰太郎とはたまきの実姉の夫であり、それに次ぐ親しい間柄を窺わせる記述である。この「夢二の想出」を書いたのが昭和18年、そして昭和20年終戦直前の7月に富山市内で亡くなっている。
 たまきと富山との関係の詳細は今回は省くが、明治・大正・昭和を通して時々富山に来ており、初代長右衛門の妻ちゑを頼って大黒屋にも寄っていたという。岸家でのちゑの存在は少なからずたまきの発育・性格にも影響し、豪放磊落な性格への刺激になっていたかもしれない。
 大黒やはそば屋として明治28年創業以来、今年で120周年を迎えた。その歴史を辿る中での夢二との関係は驚きでもあり、感動でもある。初代・初代の妻、養子の二代目、二代目の妻、全てが石川県出身ということで富山には縁戚がほとんどなく、我が家の「ファミリーヒストリー」を調べるのも大変な作業であるが、富山市での資料は当時の新聞「富山日報」や「北陸タイムス」などでも確認でき、昭和52年発行の「総曲輪懐古館」という書物にもかなり詳しい記述があり大いに参考になる。
 大黒や120年史はもう少しで完成を迎える。

よしだ・ともひろ●

1954年(昭和29年)1月2日生まれ。A型。滑川市出身。富山中部高校、慶應義塾大学商学部卒。大学卒業後、親戚筋で子どもがなかった吉田家へ養子に入る(実父と養母が従兄弟同士)。1年半、『銀座更科』で修業の後、大黒やへ。実父は、元・滑川市長の宮崎進策氏。座右の銘:無用の用 「10代の時に出会った言葉です。老荘思想の『荘子』に出てくるんですけど、ほとんどすべてのものが自分に関係ないようにみえて、実は、なんらかの支えになっているという意味です」


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