売薬商人と薩摩藩

 大河ドラマ『龍馬伝』で圧倒的な力を持つ存在として描かれている薩摩藩だが、実は、江戸初期から1840年頃まで、負債に苦しめられていたという(ペリーの浦賀来航は1853年)。
 江戸城の修築、上野寛永寺本堂の建造に加え、特に宝暦3(1753)年の「木曽川治水工事」において莫大な出費を強いられた。薩摩藩は火山灰地で農業生産が低く、台所は常に火の車で、文政10(1827)年には500万両にも達したという(薩摩藩の経常収支は年12〜14万両)。この年、島津斉興に一番信任のあつい調所(ずしょ)広郷(笑左衛門)が赤字財政再建のため抜擢され、彼は江戸・京・大坂などからの負債500万両を250年賦の無利子償還という政策をとり、事実上負債を棚上げした。また、砂糖等の専売制も実施し、ニセ金にも手を染めたという。一方、支配していた琉球王国を窓口にした中国との貿易も利益をもたらした。その際、薩摩藩は、昆布に異常なまでの執着をみせた。昆布は琉球を通して中国(当時の清)に買いとられ、その代償に得た薬種が日本で高く売れたからという。中国人が昆布を欲したのは、昆布にはヨード・カリウム・カルシウムなどを大量に含み、中国大陸に蔓延する風土病・甲状腺腫によく効くと知っていたからという。
 薩摩藩の昆布輸出量は、平均23万斤(120トン)とされているが、実際には、この2〜3倍の400〜500トンであったという。これは、日本の総昆布生産量の10%に及び、中流貿易における積荷に占める昆布の重量比は平均85%であった。
 薩摩藩は、昆布を集めるのに、商人を使った。信用ある船主だけに低利融資をして造船を助け、船の運賃で返済に当てさせたという。昆布等の俵物(海産物)は浜崎太平次で、その傘下に能登屋(密田家)等が組み入れられたようだ。それだけ、越中売薬商人の信用が厚かったのだろうと塩照夫氏は推測する。なお、箱館(現・函館)から、幕府の監視の目を避け、危険な東回り(太平洋経由)で昆布を薩摩に運ぶ途中、三陸沖で暴風雨にあい、遭難した「長者丸」の船主は、能登屋兵右衛門である。沖船頭は、木町(神通川〈今の松川〉の船運による資材の積み降ろし場所)に住む吉岡屋平四郎であった。

参考文献:「昆布を運んだ北前船」(塩照夫著・北國新聞社)、Wikipedia

おすすめ