富山町の水車(カッチャ)

 いたち川沿いに水車(富山では、「カッチャ」と呼ばれたそう)があったという話を聞かれたことがある方が多いと思います。
 『富山柳町のれきし』という本によると、富山町で水車のことが初めて出てくるのは、元文2年(1737年)だそうです。場所は、有沢辺りの磯部村領で、長柄町の八兵衛という人が、「米搗車(こめつきぐるま)」を設けました。毎年銀一枚を献上して、水車小屋では火の用心、賭博などをしないことが条件でした。
 いたち川では、明和7年(1770年)正月に、東散地町(清水・柳町の鼬川右岸一帯)の善右衛門と仁右衛門が、「臼十二柄」の規模の米搗車(米搗水車)を開き、銀六四匁の運上を7月盆前と2月に半分ずつ納めることで許可されたそうです。「臼十二柄」というのは、十二の臼を杵でつく水車という意味ではないかと、『富山柳町のれきし』の著者は推測しています。また、同年2月には、小島町で「雑穀手間挽水車」が、富山今町の六右衛門によって始められました。この水車は、挽水車で目を刻んだ石臼で穀物を粉にする水車を意味しているようです。
 安政元年(1854年)の富山城下絵図に、「カツチヤ」「搗屋」と書かれているそうですが、「カツチヤ」は「挽水車」で、「搗屋」は、「米搗水車」のことではないかと同書の著者は推測しています。
 水車の普及は、江戸末期から明治で、いたち川流域に十指に余る水車が開設されたのは明治以降とのこと。特徴的なこととして、売薬の生薬を粉砕する「薬搗屋」が4、5軒あったようです。
 なお、いたち川の水車は、直接、いたち川に架けたのではなく、いたち川から水路を引くか、いたち川から引かれた用水を利用したようです。いたち川の水利によって稼働した水車は、15から20近くあったようですが、設置年代と終えんの時期の調査・稼働内要はほとんど解明されていないようです。
 さて、いたち川と神通川の合流点(現在は松川との合流点)は、「木町の浜」といって船荷の陸揚場になっていました。東岩瀬からの魚介類、遠く北海道や大坂からバイ船(北前船)が運んできたニシン、昆布、ニシン肥料、大坂の古着、売薬の生薬、瀬戸内のロウ、塩なども陸揚げされ、富山城下の港として大変賑わった場所でした。

参考/『富山柳町のれきし』(柳町郷土史刊行委員会)

 


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