富山藩の塩硝(えんしょう)蔵はどこにあった?

 富山県立図書館に所蔵されている江戸時代に描かれた「越中富山御城下絵図」「富山御城下絵図」には、富山城の西南の郊外、四ツ屋(谷)川と佐野川の合流点付近に塩硝蔵と番人小屋が記載されている。
 ちなみに、本家の加賀藩では、収入源として塩硝(火薬)の製造を重視していたという。黒色火薬は原材料である塩硝(硝石)、硫黄、木炭を調合して造られた。このうち塩硝は越中五箇山で生産された。硫黄は越中立山地獄谷で採取し、滑川で精製された後、土清水(つっちょうず)塩硝蔵(金沢市大桑町癸〜同涌波1丁目)まで運ばれた。これらの原材料は、搗蔵内に引き込んだ辰巳用水の水流で回した水車の力で粉末にした後、調合所で調合され、その後、水練り→切り出し→乾燥という工程を経て黒色火薬へ加工されたという。土清水塩硝蔵跡は、黒色火薬の原材料の貯蔵から火薬への加工、そして製品の貯蔵と搬出までを行う大規模施設であったと推測されている。
 富山藩でも、どれぐらいの規模であったか不明だが、水量が安定して豊かで、爆発事故が城下に及ばないこの場所が選ばれたものと考えられるという。
 ちなみに、場所は、富山市長柄町だったとの資料もある。現在の住所では、四ツ谷川の北側、助作川右側の南北に細長い地域に当たる。ただ、絵図を見ると、四ツ谷川の南側にあったようにも見える。何か案内板があればと思う。

参考文献/『国史跡 辰巳用水附土清水塩硝蔵跡パンフレット』(金沢市制作)、『近世・近代における富山城下の水路に関する研究』(水田恒樹)、他

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