藩校「広徳館」を設立した 6代藩主 前田利與公

 2012年12月号で、「富山売薬の礎を築いた5代藩主前田利幸公」、2013年2月号で、「5代藩主前田利幸公と宝暦事件」について紹介した。簡単に言うと、利幸の治世期、富山藩230年間の中で最も領内が安定し、富山城下町が繁栄。富山売薬産業の販路が全国一円に広がり、活気に満ち溢れていた。ところが、利幸の資料はあまり残っていない。古老たちの話では、利幸に関する資料は神通川原で焼き払われたという。何がもとでそのような扱いを受けるようになったのか?『富山のセールスマンシップ 薬売り成功の知恵』の中で著者の遠藤和子氏は、「宝暦事件」という王政復古を目指した挙兵計画に、利幸の叔父の利寛(2代藩主・正甫の8男)が関わっていたためではないかと推測する。
 さて、利幸の後、藩主になったのは、弟の利與であった。利與が6代藩主になって3カ月後、突然幕府から「日光霊屋と奥院の修覆手伝い」が命ぜられた。負担金は13万両。10万石の藩としてはあまりにも大きな負担額であった。利與は家臣団の俸禄を全借知(借り上げ)し、宗藩(加賀藩)や大坂の富商に借銀を申し込んだり、町方に上納銀、村方には上納米を課すなどして、どうにか13万両を調達し、大試練を乗り切った。が、幕府は狙い打ちするかのように、次々と手伝い普請を命じてきた。
 そのような中で利與は、明和6年(1769年)、領内の洪水被害を防ぐために丹波(京都府)から黒松苗を取り寄せ、自ら陣頭指揮をして、いたち川の源流、馬瀬口の地に大規模な水防林地帯をつくった。一部は今も現存し、土地の人々から「殿様林」と親しまれている。
 また、安永2年(1773年)には、重臣らが財政逼迫を理由に猛反対するなかで、人材養成と士風矯正を目指した藩校「広徳館」を設立した。広徳館は、利寛の屋敷と隣家(空き家)、藩主の家を買い取った3軒分の敷地に3軒の古木を使って建てられた(注)。これによって、若手の藩士らが養成された。その一人に中田高寛がいる。利與は高寛の数学の才に目をつけ、江戸に伴って関流算学を学ばせた。彼は富山藩に戻ると領内に関流算学を広め、売薬商人たちの計算能力を高めさせた。また、丸薬づくりの時間と労力を短縮する「扇型製丸器」を発明したという。

参考文献/『富山のセールスマンシップ 薬売り成功の知恵』(遠藤和子著・サイマル出版会)

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