・ グッドラックとやま 2024街づくりキャンペーン ・『荒城の月』誕生のロマンを探る – 「グッドラックとやま」 平成4(1992)年11月号〝滝廉太郎 IN シンポジウム〟より再編集 –

 

平成元(1989)年1月、「荒城の月のモデルは富山城」との弊誌発の記事が地元新聞に大きく掲載され、その後、全国でも話題を呼ぶこととなった。
以後、関連の音楽祭や記念館の設置、座談会などを通じ、富山県民・市民への啓蒙活動を進めてきたが、35年の月日を経て、少しずつ認知されてきたようだ。
今回は、これらの活動の端緒となったシンポジウムを振り返ってみたい。

 

◇シンポジウム出席者[役職は平成4(1992)年当時]

 大澤欣治さん(富山大学 名誉教授)
 松本 正さん(大分大学 教授)
 阿部隆一さん(月刊『会津嶺』 発行人)
 高沢規子さん(富山商工会議所 婦人会会長)
 小柳和行さん(作曲家)

◇コメンテーター
 新田嗣治朗さん(月刊「グッドラックとやま」最高顧問)

◇コーディネーター
 中村孝一(月刊「グッドラックとやま」発行人)

敗者の悲哀がこもる富山城の歴史

新田 富山の街は戦災で全てが焼けたため、お客さんが来られても案内するところがないという現状があります。そんな中、中村さんが実は滝廉太郎は明治19年から約2年間、富山城址に住んでいて、その時に富山城址で受けた印象が後に『荒城の月』作曲のイメージにつながったのではないか、との新説を発表されたわけです。これは大変ロマンのある話で、非常に素晴らしいことだと思います。
 ところが、史実にないなどと、色々と反対する人がいます。しかし、歴史というのは創られるものだと思うんですね。我々後世の人間が、滝廉太郎は富山に縁が深いということを取り上げて、それを観光の目玉にしようということは、決して無理なことではないと思います。特に富山は名所旧跡などが少ないし、是非これを実現させ、富山の顔にしたいと思っています。

中村 廉太郎は『荒城の月』を作曲する際、勝者のイメージがある岡城ではなく、幼い時に過ごした富山城をモチーフにしたのではないかと思います。富山城こそ、戦乱の世に上杉謙信や豊臣秀吉などに何度も破れた、敗者の悲哀のこもる荒れ果てた城だったからです。
 城主・佐々成政に榎の木に逆さ吊りにされ、惨殺されたという早百合姫伝説は現在も語り継がれ、今も神通川に近い磯部堤には「一本榎」が残り、「早百合観音祠堂」が祀られています。また、その佐々成政は秀吉の大軍に降伏、熊本に流され、切腹して果てますが、それも立山に黒百合を咲かせた早百合姫の祟りだという風に、戦乱の世の栄華と哀愁が漂う富山城には、鶴ヶ城と同様、まさに『荒城の月』の詞の世界があったんですね。

 

影響が大きい幼児期の環境

大澤 私は戦後、音楽の早期教育ということに非常に関心を持ち、才能教育の運動をされ、教育実践もなさった鈴木慎一先生に10年余り師事し、子供の音楽教育、主としてピアノやバイオリンを通じて才能教育の研究をいたしました。従って、幼児期に環境が与える影響がいかに大きく、かつ深部にわたるかということをしみじみ体験してきた一人であります。これは、計り知れないとさえ思えます。
 私自身の小さい頃のことを振り返ってみますと、やはり小学校1、2年の頃の印象というのは、受け持ちの先生の顔が鮮明に出てくるくらいに印象が強いんですね。しかし、3年、4年になりますと、かなり薄らぐんです。どなたもそうでないかと思いますね。小学校時代は、1、2年生と持ち上がりの女の先生でしたけれど、習った歌から読んだ文章まで全部出てきますね。
 結論は、滝廉太郎は廃墟と化した富山城で『荒城の月』の楽想を育んでいったんじゃないかと。私は作曲家でありませんし、たくさん作曲しませんが、不二越中学校の校歌などを頼まれた時は、毎朝いつも立山をじっと眺めて、立山の雄大な雰囲気を感じながら、浮かんでくるメロディーを何回も何回も焼き直して作ったのを今思い出す時に、滝廉太郎についての中村さんの言われる説が、強烈に真実味を帯びて迫ってくるわけです。

松本 滝廉太郎の富山時代については、滝吉弘の自筆の履歴書や当時の中越新聞、また東京藝術大学に保存されております彼の自筆の履歴書で確認できます。
 一方、竹田時代に関してですが、直入郡高等小学校時代の経歴や学籍簿、友人と撮った写真、描いた絵、住んでいた官舎が残っています。現在は市がその官舎を買い取り、今年の4月に滝廉太郎記念館としてオープンしました。
 『荒城の月』との関わりがあるとされる岡城ですが、周囲は非常に谷が深く、天然の要塞と言われ、難攻不落の城でした。明治4年の廃藩置県によって藩主が上京した時に取り壊され、滝廉太郎がいた当時は荒れ果てて石垣だけが残っており、雑木や雑草が生い茂る中で、肝試しをやったというエピソードが残っております。
 特に、滝廉太郎は大胆不敵で、平気で岡城まで行って帰ってきて、友人たちを驚かせたり、ハーモニカなどの楽器を演奏したりという話も残されております。 
 『荒城の月』が作曲されるプロセスですが、この曲は明治34年3月に出版された『中学唱歌』という東京音楽学校が編集した唱歌集に収められているものなんです。中学校用の唱歌が必要ということで、当時の文学者に歌詞を依頼し、曲は一般から募集したわけです。一人3曲以内という規定で、滝廉太郎は3曲応募してすべて当選し、その中の一つが『荒城の月』でした。ですから、『荒城の月』というのは、まず詞があって、それに曲を付けて応募したということです。だいたい明治32年から33年ごろの作曲と推定されています。 滝廉太郎は当時、晩翠と会っていませんので、『荒城の月』の詞の背景等については、十分に知らなかったはずです。ですから、いったい彼はどこの城をモデルにしたのかというのが今回のテーマですが、滝廉太郎は自分の考えで曲を作るしかなかったと思います。

 

大きな手がかりは『荒城の月』の歌詞

 残念ながら、どこの城をモデルにしたかとか、『荒城の月』に関して滝廉太郎は何も語っていないんです。晩翠の方はどこの城をモデルにした、というようなことを述べているので、大した問題にはならなかったかもしれませんが、残していないばかりにいろいろ議論の的にもなるわけです。しかし、彼の曲こそが、我々に残してくれた最大のメッセージに他ならないだろうと思います。
 ただ、これが言語的なメッセージではなく、主として人間の感情や感性に訴えかけるものですから、どこの城がモデルになっているのか判断することはおそらく困難だと思います。ですから、作曲の元となった『荒城の月』の歌詞を手がかりにするしかないですね。

阿部 その点、歌詞の方は土井晩翠が戊辰戦争で破れていった会津鶴ヶ城の落城をテーマとした、とハッキリ回想文に書き残していますので、まったく問題はない訳です。明治戊辰の戦いで、徳川親藩最後の拠点として西軍の総攻撃を受けた会津松平藩は、皮肉にも難攻不落と謳われた名城、鶴ヶ城に立てこもって悲劇の終末を迎えます。籠城一カ月、劣勢にもかかわらず城はよくその猛攻に耐え、会津士魂の象徴でもありました。
 しかし、刀折れ、矢尽きて、戦い敗れた会津の里には、硝煙と血の匂いが立ち込め、城下のあちこちに残る砲弾の傷跡は、ただ戦争の無情を語るばかり。こうした落城の様子は私どもで出版した冊子『鶴ヶ城』に詳しく載っておりますので、『荒城の月』の歌詞の背景をつかんでいただけると思います。

通っていた小学校跡に建つ滝廉太郎の少年像(富山市丸の内)

父親が非職を命じられ、富山を去った廉太郎

中村 晩翠さんの『荒城の月』には、敗者の悲哀がこもった歌詞が随所に見られます。廉太郎は鶴ヶ城は見ていないですし、記憶の糸がたぐられ、少年時代を過ごした富山城での記憶が蘇ってきたのではないかと思うんです。
 富山城には上杉謙信や豊臣秀吉に敗れ、早百合姫伝説などに見られるように、鶴ヶ城がたどったのと非常に似通った敗者の悲哀がこもった歴史があるわけです。
 また、富山時代は父が知事代理にまでなりながら、退職に追いやられるという出来事もあり、まさに晩翠が『荒城の月』のテーマとした栄華と哀愁を身を持って体験したのではないでしょうか。傷心で富山を去った廉太郎少年が、父の姿に敗れた人の悲哀を感じたことは想像にかたくないでしょう。
 感受性の強い少年の心のひだに刻まれた、決して消すことのできない傷。この時の思いが、『荒城の月』のあの哀愁を帯びた曲の誕生につながったと思います。

高沢 昨年、富山市で開催された商工会議所婦人部の全国大会で、テーマを『荒城の月』としたところ大変反響があり、ある女性の方から感想文をいただいたので、ご紹介したいと思います。
 「昼食での〝鱒の寿司〟の味、『荒城の月』のメロディーに舞台狭しと舞う、郷土の誇り。富山で生まれた自分が誰よりも幸せであると、背伸びしたくなる思いでした。(中略)有意義であった富山の旅を、いつまでも大切にしまっておきたい気持ちでいっぱいです」
 このように、『荒城の月』のロマンが、感動を与えたわけですね。滝廉太郎が富山で少年時代を過ごしたことは既成事実であり、そのことを富山の顔としてPRしていくのは当然かと思っております。

小柳 もしイメージしていたとしたら、富山城や岡城だけでなく、廉太郎が過ごした所にあった城全部が対象になってくるのではないでしょうか。

中村 廉太郎は『荒城の月』を作曲する際、過ごした土地の城―特に敗れた人の思いを富山城から、自然の中の城址を岡城から、あの不朽の名曲を誕生させたのではなかろうか、とロマンを持ってまとめさせていただきたいと思います。本日はそれぞれのお立場から様々なご意見を賜り、誠にありがとうございます。私たち富山市民は、自信を持って『荒城の月』との関係をアピールしていきましょう。

 

▼昨年6月、滝廉太郎の没後120年を記念して、滝廉太郎研究会によって居住地跡(アームストロング青葉幼稚園東側)に案内看板が設置された。写真は除幕を行う滝廉太郎研究会理事長・中村孝一と、アームストロング青葉幼稚園長・奥原望先生

▼『荒城の月』『花』を歌い、除幕式を盛り上げたさくらコーラスの皆さん

▼富山市丸の内2丁目に建つアームストロング青葉幼稚園

▼看板を写真に収める滝廉太郎研究会副理事・川田文人さん

― 滝廉太郎 年表 ―

1879(明治12)年8月24日 東京都芝区南佐久間町に生まれる。
1882(同15)年11月 父が神奈川県書記官となり、横浜に転居。
1886(同19)年8月 父が富山県書記官に栄転となり、富山市に転居。9月 富山県尋常師範学校附属小学校1年に転入。(7歳)
1887(同20)年2月 父が富山県知事代理となる。
1888(同21)年4月 父が知事と不仲になり、非職を命じられる。5月 傷心のうちに富山を離れ、東京へ転居。東京市麹町小学校3年に転入。
1889(同22)年3月 父が大分県大分郡長に任じられる。(廉太郎は、祖母、病弱の姉らと東京に残る)
1890(同23)年5月 廉太郎も、大分に転居。大分県師範学校附属小学校高等科1年に転入。
1891(同24)年11月 父が大分県直入郡長に転じる。12月 一家、豊後竹田へ転居。
1894(同27)年5月 上京し、音楽学校受験準備のため芝区愛宕町の「芝唱歌会」に入会。9月 東京音楽学校(予科)へ入学。
1895(同28)年9月 同校本科へ進学。
1898(同31)年7月 本科を首席で卒業。9月に研究科入学。
1899(同32)年9月 音楽学校嘱託となる。(20歳)
1900(同33)年6月 ピアノ・作曲研究を目的とし、満3カ年のドイツ留学を命じられる。この年、「荒城の月」「花」を含む組曲 「四季」 「箱根八里」 「お正月」など、多数作曲。
1901(同34)年4月 ドイツ留学へ出発。10月、ライプチヒ王立音学院入学。
1902(同35)年10月 病気のため、ドイツより横浜港に帰省。大分市の父母のもとで療養。
1903(同36)年6月29日 病死。(23歳10カ月)

 

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