富山城はなぜ、「浮城」と呼ばれたか?/「神通橋」架橋は大きな民間事業?

特別編「船橋向かい物語」から2編

富山城はなぜ、「浮城」と呼ばれたか?

 富山城が「浮城」と呼ばれた、という話は聞いたことがあると思う。
そばを神通川が流れていたからだろうと漠然と感じるが、『船橋向かいものがたり―愛宕の沿革』(水間直二編)に、「なるほど…」というエピソードが掲載されていたので、ここで紹介したい。
 著者の水間氏は、山田為之助氏という明治43年6月、愛宕町生まれの古老から、「90年(神通川の)流れを見てきた祖父からこのように伝え聞いた」と原稿を寄せられたという。まとめると、次のような話である。
 400年前の天正の頃まで、神通川は流れるままに蛇行しながら熊野川・井田川を合流し、呉羽山の麓を流れ、現在の五艘、安養坊が流れの中心であった。その後、川身が当方へ次第に向きを変えつつあった頃、佐々成政が織田信長の命により越中富山の城主に封ぜられた。成政は早速この豊富な水量と急流を利用し、難攻不落の城を築こうと考え、天正8年11月、木町に「渡船場」の制を定めた。そして、芝園中学校グラウンドの西北隅に、城の石垣に用いたよりはるかに巨大な岩石を積んで、幅100メートル、高さ15メートルもあるダム(「早瀬の石垣」と称した)を作り、神通川の水流を受け止め、急な角度で東に曲げた。さらに、「八田ノ瀬」を作り、そこまで3間竿(1間を1.8mとすると、5.4m?)も届かない深い淀みをつくり、「船橋」を架けた(注:最初の船橋を架けたのは前田利長というのが定説)。これを対岸から見ると、とうとうと流れる大河の上に、ぽっかりと富山城が浮かんで見え、よって「浮城」と呼ばれていた。
 編者の水間氏は、それまで「早瀬の石垣」について書かれたものを見たことはなかったそうで、この話は、「成政伝説」の一つであろう、と分析している。
 ただ、小誌の2003年9月号の特集『馳越 成政と神通川』で、遠藤和子さんも、〝成政は洪水によって変わった川筋を逆手にとって、富山城を堅固な浮城にするため、巨岩を積み重ね、頑丈な石垣堤防を築いた。人々はこれを「早瀬の石垣」と呼んだ。さらに下流の八田ノ瀬には巨木を積んでダムを作り、有事には川の水をせき止め、天然のダムとした。巨木は上市町の眼目山立山寺から運んだ〟と述べておられ、事実だった可能性も高い。
 ちなみに遠藤氏は、神通川が東に曲がったのは、八尾から婦中町を流れて神通川に注ぐ井田川が上流の集中豪雨で氾濫し、神通川の土手を突っ切って城下を直撃したことが原因という。成政がその流れを固定したので、「成政が神通川を曲げた、という説を生んだのではないか」と遠藤氏は述べている。
 なお、八田ノ瀬は江戸時代に神通八景の一つとなり、前田利郷(2代藩主・前田正甫の第七子)が、「つる人もここにそめん そらはれて あらしを残す 川岸の松」と詠んでいる。
 ちなみに現在、いたち川に架かる八田橋の下流側の工事が進んでいる。 

 

「神通橋」架橋は大きな民間事業?

 明治15年12月、神通川に、それまでの「船橋」に代わって「神通橋」が完成した。この「神通橋」が民間事業で架けられたという記述が『船橋向かいものがたり―愛宕の沿革』(水間直二編)にある。
 この「神通橋」実現のため、最も奔走したのが、安村正義氏という。安村氏は、明治13年(1880年)年6月、富山商法会議所(今の富山商工会議所)を発起人代表となって設立し、初代副会頭(会頭は関野善次郎)として、同14年7月までに在任した方だが、退任後も「神通橋」実現のために運動したという。
 激しい水流の中で橋を架けることは、技術上、工費面で難事業であった。その長さは127間(231m)にも及び、幅は4間(約7.3m)であった。
 この時点で、いまだ石川県であり、県議会はできていたが、西部選出議員の賛同を得ることはできなかった。この状況を見て安村氏は、デフレと不作の年であったが、先頭に立って各戸より寄付金を仰ぎ、2万5000余円の工事を集めた。ちなみに、寄付の最高は、七軒町側の橋のたもとで旅宿を営み、「あゆのすし」(鱒の寿司のルーツ)をつくっていた蔵本嘉七の100円であったという。
 「神通橋」架橋は、明治になって富山町の人々が成し遂げた、忘れてはならない大きな民間事業であったと水間氏は述べる。
 なお、明治16年1月に「渡り初め」が行われ、同年5月に富山県が石川県から独立している。


【追記】

下の絵の右手にある「鮎すし」のお店は、蔵本嘉七のお店かも?

▲『越中之國富山船橋の真景』 松浦守美
 株式会社源 所蔵

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