広田用水路いたち川サイフォンと、土川・熊野頭首工(富山市)
常西合口用水が泥で埋まり、土川から取水することに
4月号のこのコーナーで、いたち川の「大泉道標」を取り上げたが、そのすぐそばに「広田用水路いたち川サイフォン」がある。広田用水土地改良区に問い合わせたところ、土川、熊野川から取水した水を広田用水に取り入れる途中、ここでいたち川の下をくぐっているのだそうだ。
広田用水は、できた当初は常願寺川から取水していた。安政5年2月の大地震で、常願寺川水源地の大鳶、小鳶の両山が大崩壊し、湯川谷を塞いで大きな湖水ができ、それが決壊し、上滝から下流の田畑が泥土と岩石で埋まった。溺死者が800余人に及び、広田用水路の修繕工事をしていた曽根さん他25名が濁流に巻き込まれ溺死した(新庄町の広田用水記念公園にその慰霊碑がある。2011年9月号で紹介)。その後、オランダ人技師、ヨハネス・デ・レーケの指導により、常願寺川左岸の12の用水の取水口を上流1カ所にまとめる常西合口用水が開削され、明治26年に完成し、そこから配水を受けることになったが、大正11年、またもや大鳶山が大雨で崩れ、常西合口用水はほとんど埋没してしまった。
このため、農民達は干害に悩むようになり、その状態がいつまでも続いては駄目だとの声が大きくなり、他の水系から補給水路を作る必要を痛切に感じ、度重なる相談協議の末、土川から補給水路を引くことを計画した。関係要所へ指導調査を依頼し、請願・陳情運動等、必死の努力を重ねた結果、大正12年、県営事業として着工となり、翌13年、延長約7キロに及ぶ補給水路が、農林省第1号指定国庫補助事業として竣工した。
その後、昭和58年、土川頭首工は、空気を入れて膨らませ土川の水を堰止める形式のゴム製のラバー堰になった。この方式は、昭和59年に完成した松川浄化用水導入施設や、平成13年に完成した、いたち川取水堰でも採用されている。
さて、大正13年に土川からの取水が始まった後も、なお水不足があったことから昭和12年度に熊野川の水を取水することが決定され、水路約700メートルが新設された。当初は、熊野川より取水した水を一度土川へ放流し、土川から広田用水へ取水していたが、市南部地帯の生活排水のため年々汚染が激しくなったことから、熊野川より取水した水を直接、土川補給水路へ連絡する広田用水連絡水路(全長1980メートル)の新設が決定され、平成5年3月に完成した。
なお、農業用水は、米をつくる大切な水を供給するとともに、さまざまな機能を発揮している。
○洪水の防止 ○水質浄化 ○地下水のかん養 ○生態系の保存 ○地域用水(防火・消雪)
これからも末永く大切にしていきたいものである。
取材協力/広田用水土地改良区
参考資料/「用水の流れと共に」(広田用水土地改良区発行)、案内板