古代まで遡る?鱒の鮨献上の歴史
富山名産、鱒の鮨。そのルーツは鮎の鮨で、鮎の鮨は、富山藩士・吉村新八が創製し、三代富山藩主・前田利興が賞美し、将軍吉宗に献じたところ激賞され、やがて富山藩から徳川幕府への年々の献上物になった...
富山名産、鱒の鮨。そのルーツは鮎の鮨で、鮎の鮨は、富山藩士・吉村新八が創製し、三代富山藩主・前田利興が賞美し、将軍吉宗に献じたところ激賞され、やがて富山藩から徳川幕府への年々の献上物になった...
事件に関わった叔父・利寛〈としひろ〉 2012年12月号で、富山売薬を産業として育てた5代藩主・前田利幸公をご紹介した(リンク)。利幸公は、『富山のセールスマンシップ 薬売り成功の知恵』の中...
きっかけを作った正甫〈まさとし〉公 全国的に知られる「越中富山の薬売り」のきっかけを作ったのは、ご存知のとおり、富山藩2代藩主の前田正甫公である。 一方、『富山のセールスマンシップ 薬売り...
先祖は大伴家持と越中へ 富山売薬の起源についての話で必ず登場する名前が、松井屋源右衛門である。 『富山市史 通史〈上〉』では、富山売薬の起源について諸々あるとし、その一つとして、〝備前国(...
立山カルデラ砂防博物館 館長 今井 清隆 明治新政府が発した神仏分離令によって廃仏毀釈の気運が高まり、各地で仏堂の破壊が繰り返され、神仏一体の立山信仰も根本を激しく揺さぶられた。長らく続いた...
今月の「富山の風景」でもご紹介している安政5年(1858)2月26日(現行暦の4月9日)の「安政飛越大地震」については、常願寺川関連の被害ばかりが言われていますが、神通川関連でも舟橋が流出す...
江戸時代、松川(当時は神通川)といたち川の合流点付近は、『木町の浜』と呼ばれ、下流の東岩瀬(加賀藩領)までの2里(約8キロメートル)は、白帆を張った40石積の舟が絶えず航行しました。(上流は...
1901(明治34)年〜1903(明治36)にかけて行われた神通川の馳越線(はせこしせん)工事。これにより、幅2m、深さ1・5mの細い水路が作られ、その後の洪水により土砂が削られて幅が広...
▲「神通川 船橋の図」松浦守美(1824〜1886) 株式会社 源 所蔵 神通川に最初に船橋が架けられたのは、高瀬保氏の「神通川船橋考」による慶長10(1605)年、あるいは...
“舟橋のある所天下に右三ヶ所なり。 其内、越中を第一とすべし。” 「東遊記」 江戸時代後期の医家(臨床医)で、医書の著述にも富んだ橘南谿(たちばな・なんけい)が、30歳から3...